お施餓鬼(せがき)の由来は、『仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼経(ぶつせつぐばつえんくがきだらにきょう)』に説かれています。

お釈迦さまの弟子の阿難(あなん)尊者が主人公です。

阿難尊者はお釈迦さまの身の回りの世話をし、一番多くの教えを聞いたので多聞(たもん)第一といわれ、十大弟子の一人にも数えられている方です。

阿難尊者が一人で静かな場所に座り、学修している時のことでした。
夜も更けた丑三刻(うしみつどき)、「焔口(えんく)」という名の餓鬼があらわれました。
その姿は、身は醜く枯れ細り、口からは火を吹き、喉は針の先のように細く、見るのも恐ろしい形相でした。

餓鬼は阿難の前にじっと座り、そしていいました。    

                                         「阿難よ、お前の寿命はあと三日で尽きる。死んだ後は餓鬼となり、私と同じような醜い恐ろしい姿になるだろう」

びっくりした阿難は餓鬼に、
「どうしたら、その苦をのがれることができますか」 と尋ねました。

餓鬼は
「明日の朝、無数の餓鬼とバラモン(司祭者)に多くの飯食(お供物)を用意しろ。そうすれば、その功徳によってお前の寿命は延び、私は餓鬼の苦を離れ、
天上に生まれることができるだろう」と言いました。

阿難尊者は恐れに震えながら、お釈迦さまにどうしたら
それほどたくさんの食物を用意できるか、助けを求めました。

するとお釈迦さまは
「限りない功徳があり、勝れて巧妙な思うがままの妙力をそなえる陀羅尼(だらに)」を示し、
「心配しなくてよい。この呪文を唱えながら餓鬼に食物を布施しなさい。そうすれば僅かな一食でも、たちまちにたくさんのおいしい食べ物になり、無数の餓鬼を満足させることができるだろう。またバラモンにも心のこもった食べ物を布施することになるだろう」
と教えました。

餓鬼とは地獄・餓鬼・畜生という三悪趣(さんあくしゅ)の一つで、飢えと渇きに苦しむものをいい、地下深いところに住むといわれています。
そして、水を見つけても血膿となって飲むこともできず、喉が針のように細いので食べ物を腹一杯食べることもできず、
食べた物が口の中で火となって燃え、結局食べることができずに苦しんでいるものです。

では、阿難尊者の目の前に現れた餓鬼とは何を意味しているのでしょうか。
その醜い姿は私たちに何を教えてくれるのでしょうか。


子供は目で食べるといわれています。
食事が済んだばかりでも、お菓子を見つけると食べたがります。
大人からみれば十分食べて満腹のはずなのに、
本人は目の前の食べ物に心を奪われ、自分の腹具合を考えません。
つまり、満腹を知りません。このような限りない物欲(ぶつよく)が餓鬼なのです。

阿難尊者が見たものは、自分の心の中にある物欲にほかなりません。
物欲に支配されていると、自分本位に走り、人を差別したり、傷つけたりします。

そこでお釈迦さまは、物欲に支配された醜い心を洗い、清らかにしていく手だてとして、布施の修行を示し、三宝(さんぼう)の供養を教えたのです。
自分だけ腹一杯になれば、それはそれで幸せでしょう。
しかし、それではどこまでいっても物欲に支配され、自分で自分を縛ることになります。


他人の腹具合を考え、ものを分かち合う時に、
初めて自分に縛られないもっと大きな安らぎがあることに気がつきます。

私たちが生きていく上で避けてとおれない「食欲」をたとえにして、
人間らしく生きていく道を教えてくれるのが施餓鬼であり、ものを分け与えること、いいかえれば回りの人々の役にたっていくことが、布施の修行の意味なのです。