いろんなところや場面で唱えられることの多い最もポピュラーな経典である「般若心経」とはどんなことが記されているのかをお伝えしたいと思います。

般若心経は日本語の解説書、英語の解説書、ハングルの解説書を読んでも、固定的な訳があるわけではなく、少しずつ内容に違いがあります。
なぜここまで般若心経の解釈や翻訳が分かれているかというと、般若心経はあくまで「経」であって、その解説である「論」が伴っていないことから来ているようです。
それでも数多くの解説文献を読むうちに、般若心経の根本的な内容が見えてきたので、そのエッセンスをお伝えしたいと思います。
般若波羅蜜多心経」(プラギャー・パーラミター・フリダヤ・ スートラム)には、ショート、ロング2つの版があって、通常、経典として唱えられるものは、経文のみ のショート・ヴァージョンです。ロング・ヴァージョンは、どのような状況の下で、この講話がなされたかがよく分かります。

 今回はサンスクリット原典および漢訳からロング・ヴァージョンの般若心経を

     【講話の状況を説明する前文】

     【理解すべき本経文】・・・・・※グループO/P/Q/S/T/Vを考察

     【講話の状況を説明する後文】

の三部構成で考察していきたいと思います。

     【講話の状況を説明する前文】

全知者に礼拝いたします。ओम् नमः सर्वाज्ञाय

私は、このように聞きました。एवं मया श्रुतम् ।।

ある時、釈尊は、ラージャグハのグリタラクータ山に多くの比丘や修行者の人々を周りにして講話をされていました。स्मिन समये भगवान् राजगृहे विहरति स्म गृध्रकूटे पर्वते महता ते महता भिक्षुसंघेन सार्ध

その時、釈尊は、まさに、深い瞑想の状態に入っておられました。महता बोधिसत्त्वसंघेन एवं व्यवलोकयति स्म ।।

しかも、その時、高貴なる全知者、覚醒者である釈迦さまに対する尊称)釈尊は、すでに、日常の生活そのものも、 心=私という想念を超えた境地にあり、次のように真理をご覧になりました。तेन समयेन आर्यावलोकितेश्वरो बोधिसत्त्वो महासत्त्वो गम्भीरायामारायां प्रज्ञापारमितायां चर्या चरमाणः

ある姿・形をとっているものは、5つの基盤からなる集まりか らなり、その本性は「なにもない」。पञ्च स्कन्धाः तांश्च स्वभावशून्यंन् व्यवलोकयति ।।

すると、長寿に恵まれた(これは、舎利子に対する敬称)シャーリプットラは、釈尊に触発されて、次のように尋ねました。पुतरी बुद्धानुभावेन आर्यावलोकितेश्वरं बोधिसत्त्वम एतद अवोचत ।। अथ आयुष्मान् शारिपुतरों बुद्धा

深い瞑想の状態、心=私という想念を超えた智慧の状態を身につけたいと願っている高貴なる一族の若者は、どのよにすればろしいのでしょうか。यः कश्चित् कुलपुत्रो गम्भीरायां प्रज्ञापारमितायां चर्तुकामः , कथं शिक्षितव्यः

高貴なる全知者であり、偉大な覚知者の(ここまでは、尊称) 釈尊は、長寿に恵まれたシャーリプットラに、このようにお答えになりました。एवम् उक्त आर्यावलोकितेश्वरो बोधिसत्त्वो महासत्त्व आयुष्मन्तं शारिपुत्र एतद्

長寿に恵まれたシャーリプットラよ、深い瞑想の状態、心=私という想念を超えた智慧の状態を身につけたいと願っている高貴なる一族の若者や娘は、このように、よく観察すべきである。 चर्या चर्तुकामः, तेन एवं व्यवलोकयितव्यम्

5つの基盤となる柱があるが、そのものの本性はない。(と洞察している)पञ्च स्कन्धांस्तांश्च स्वभावशून्यान् समनुपश्यति स्म।

※ここまでが、講話の行われた場所での状況を述べられ、 理解すべき内容が本経文として語られます。

 

    【理解すべき本経文】

仏説摩訶般若波羅蜜多心経……O 

観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。……P

舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受想行識亦復如是。……Q

舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。
是故空中、無色、無受想行識、無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法。
無眼界、乃至、無意識界。
無無明亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。
無苦集滅道。無智亦無得。……R

以無所得故、菩提薩捶、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、
無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。……S

三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三貌三菩提……T

故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、
能除一切苦、真実不虚。……U

故説、般若波羅蜜多呪。即説呪曰、羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶。
般若心経……V

 group O
  般若波羅蜜多(プラギャーパーラミター)心経 

般若

般若心経の般若とは、「知恵」を意味するサンスクリット語の「プラギャー」なのですが、俗語では「パンニャー」と発音され(例えば上座部仏教の聖典語であるパーリ語)、それが日本に移ってくるときに「般若」という漢字を当てられました。
「般若」とは人間の根源的な知恵のことで、いわゆる分別知(知識や判断)とは区別されます。

波羅蜜多

「波羅蜜多」はサンスクリット語の「パーラミター」に漢字の音を当てたもので、彼岸に至ることを指します。そこから「般若波羅蜜多」とは「知恵の完成」という意味になります。

心経

「心」(フリダヤ)とは、心臓から転じて「エッセンス」の意味です。
なぜ心経と呼ぶかというと、般若波羅蜜多心経(般若心経)は、600巻から成る大般若波羅蜜多経の要約、つまりエッセンスだからです。
この「プラギャー・パーラミター・フリダヤ・スートラム」(般若・波羅蜜多・心・経)を漢字で読めるようにしたのは、西遊記で皆さんご存じの三蔵法師玄奘です。
玄奘は、インド(天竺)に渡って仏教の経典を中国(唐)に持ち帰り、それを中国語に翻訳しました。当時の状況でインドに行って戻ってくるのは、現代において火星に行って戻ってくるよりも途方もないことに思えます。なお、三蔵とは、仏教の「律」(仏教徒のルール)、「経」(釈迦の教えのまとめ)、「論」(経の解説)の三者のことです。
そして三蔵法師とは、この律・経・論に精通した僧侶を指す言葉で、固有名詞ではありません。ボクシングの三冠王者が誰か特定の人間を指すものでないのと同様です。

group P
आर्या(アーリア/高貴なる)観自在ईश्वर(イシュワラ/主)菩薩般若波羅蜜多रमाणः(チャリアーン/日頃の)時、照見五蘊तांश्(ターンチャ/そしてこれらは)च स्वभाव(スワヴーヴ/本性)皆空、度一切苦厄※原文にはない            

観自在菩薩

「観自在菩薩」というと、何らかの仏像をイメージしてしまう人がいますが、そうではありません。「アーリヤ」は、玄奘の漢訳にはありませんが、古代イ ンド、ヴェーダの時代にあっては4ヴァルナ(カースト)のうちバラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャの上位3ヴァルナを意味したことがありました。ここでは、「高貴なる」の意味です。「観自在」はものごとを一瞬にして見通された、という意味です。「菩薩」は修行中の人を指す場合もありますが、イーシュワラ()と合わせて全知者という解釈になり、お釈迦様を指します。従って、「観自在菩薩(アーリヤ・アワローキテーシュワラ)」は、 「高貴なお方であり俯瞰的にものごとを洞察されている全知者の」といった意味のお釈迦さまに対する尊称です。観自在菩薩(アワローキテーシュワラ)の像は複数あり、仏陀立像以外にも11 世紀頃に発掘されていますから、アワローキテーシュワラは、上記の意味に取る必要があります。なお、アワローキテーシュワラ となっているのは、サンスクリット語のサンディ(連音)のため、アワローキタとイーシュワラの音が tati=te(テー)となるためです。このような音の変化は、他にも起こります。

行深般若波羅蜜多時

玄奘・漢訳の「行」は、後へ持ってきた方が分かりやすいので「深(ガンピラーヤーム)」から説明しましょう。ガン ビーラとは、「深い」という意味ですが、その後に「プラギャー, パーラミターヤーン」がありますから、「(心のレベルを超えた)深い瞑想の状態」を意味し、お釈迦さまにとってそれは、「行時(チャリヤー ン・チャラマーナハ」日常の生活がそうであったことになります。この部分は、よく「般若波羅蜜多の行(ぎょう)()を行っている時」と説明されているのを見かけますが、 ロング・ヴァージョンで説法が行われた状況から考察すると、お釈迦さまはすでにお悟りになった境地からなさっているのでこの説明は大変不自然です。 ()「六波羅蜜の修行」とは、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の合計6つを言います。「波羅蜜」は、パーラミターの漢字による音写で「心、想念のレベルを超越すること」です。釈尊の一般の人々に対する修行法としてアーナーパーナ・サティとヴィパッサナがよく知られていずれも呼吸に留意しなければなりません。 

照見

「照見(ヴィヤヴァローカヤティ・スマ)」とは、ヴィ ( 識 別して)アヴァ(可高い見地から)ローカヤティ(観る) スマ(~するのが常)という意味で、このような心のレベルを超えた状態で、照らし出されるようにはっきりと見てとれた状況は、この原文の不変化詞のスマに注意して下さい。これは習慣過去形と言われる表現で、英語の used to see に相当しますから。普段ずっとご覧になっている状況です。それは一体何でしょうか?

五蘊

「五蘊」とは、5つの基盤となる柱(パンチャ、スカンダーハ)のことですが、具体的にはまだ述べられずに、次項のQで「色・受・想・行・識」が出てきます。

皆空

5つの基盤となる柱は内容が具体的に示されないまま、まず、 それらすべてのスワバーヴァ「本性」は、シュンニャー ンつまり、「なにもない」とお釈迦さまは、パッシャ ティ・スマ常々洞察されていたことになります。 ここは、漢訳で省略されていますが、再び「照見」を補った方が理解しやすいと思います。

度一切苦厄。

この一文は原文にはないものの、玄奘が後の句、能除一苦(のうじょいっさいくサルヴァ・ドゥフッカ・プラシャマナハ「すべての苦しみが静まる」をここへ持ってきたとも考えられます。 

観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。

高貴なお方であり俯瞰的にものごとを洞察されている全知者が、知恵の完成のための修行をしていたときに、存在を構成するすべてのもの(五蘊=ごうん)は空であると達観して、それによってすべての苦厄から解放された、という意味です。
この五蘊とは「色」「受」「想」「行」「識」のことで、それぞれ、形あるもの(物質)、感情、知覚、意志、意識を意味します。仏教では、存在はすべて物質と人間の精神作用によって構成されていると考えています。なお、サンスクリット語の原典を訳したものは次の通りで、翻訳に際して若干意味が変わってきたことが見て取れると思います。
高貴なお方であり俯瞰的にものごとを洞察されている全知者が、深遠な智慧の完成を実践していたときに、存在するものには五つの構成要素があると見きわめた。しかも、かれは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見ぬいたのであった」
ここでのポイントは、私たちが普段目にする漢字の般若心経には「度一切苦厄」という言葉がありますが、原典にはそれに当たる言葉が存在しないということです。「度一切苦厄」は、玄奘が訳出に当たって挿入した言葉だと考えられています。
これはあくまでも一例で、日本語の般若心経は、サンスクリット語原典の完全な直訳にはなっていません。